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【1010系】阪急電鉄旧型車両スレ6【2000系】別室Part2-4

[1]投稿者:名無し野電車区 投稿日:2015/09/13(Sun) 23:09 No.152  
新スレを立てました。
[2]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/26(Sat) 09:24 No.165  
2000系列の台車に付いて書いてみたいと思います。
スレを跨いでしまうので、新スレに書きます。

2000系でアルストムを履き続けたのは前述の通り17両。能勢電に行かずに平成4年までに廃車になった2000・2071系は15両。

廃車の15両のうちアルストム台車を履いて製造された車両は4両(2001、2009、2056、2060)だが、2159〜2161Fの台車を
譲り受けているのかも知れず、晩年の状態は不明。仮に15両全車がミンデン台車だったとしても2両分不足するので、1700系
には少なくとも2両、2800系由来のミンデン台車を履くものがいると思われます。ただし「玉突き」されて、2800系以外の
台車が能勢電に行っている可能性も有り得ます。なお、平成4年までに廃車になった2800系21両はすべてミンデンです。

このようにして捻出された2000系のアルストム台車で、旧2156〜2158の6両分の台車(1000系列由来のアルストム台車)を
置き換えたという格好になるかと思います。
[3]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/26(Sat) 09:25 No.166  
5000〜5006Fに編入された2071系のエコノミカル台車は順次淘汰されて行きましたが、
これらは一旦全車1000系列由来のアルストム台車になった上で、更に何両かがミンデン
台車になったと聞きます。つまりエコノミカルから直接ミンデンになったものはないと
いうことです。どうなんでしょうか?(アルストムで終焉を迎えたのは2081、2181、
2082、2182くらいでしょうか?)

2300系は14両がエコノミカルでしたが、9両(2355、2307、2357、2308、2358、2331、
2320、2340、2370)がミンデンに、2両(2356、2361)が1000系列由来のアルストムに、
3両(2305、2306、2311)がエコノミカルのまま最後まで走りました。2311Fに編入の
2884のシンドラもミンデンに変わっています。
[4]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/27(Sun) 07:37 No.168  
前スレ>>51
>「単行可能車」

京阪や阪神でも1両単位の増結車(運転台付き車)が存在しておりました。
近鉄のエースカーもTcではありますが、編成の長さを変えられるようになっていましたね。
[5]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/28(Mon) 11:18 No.169  
ミンデンのFS345(M車用)については神宝線(WN駆動)京都線(中空軸平行カルダン)の違いから歯車装置の台車取付方が異なり互換性はない
これはアルストムFS311,FS333も同じで部内では京都線用はFS345Kというような呼ばれ方をしている。
なので2800系出のFS345が神宝線用のM台車に使用は無かったと思います。
2300系についてはモータ付でそのまま流用可能ですね。

同一台車形式でM台車の互換性の無いのは3300、5000系のFS369まで続きます。

[6]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/28(Mon) 15:07 No.170  
>>2
2021系はT車化の際の元M車はFS345ままだったので、2800系出のFS45(T台車)と振替てFS345をねん出したのでは?

2300系2311,2331についてはAFEチョッパの試験車で床下機器艤装が一杯で寸法の大きいFS345に振替が出来なかったそうです。
[7]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/29(Tue) 09:16 No.171  
前スレ1140形の頻繁な編成替え(宝塚線)ですが、
S43.10頃まではおもに梅田側に1140 1142 1143 1146などが
1両で付いたり外れたりしていました。
しかしS43.11頃からは昇圧後を想定してか、梅田側3両目に
入れられるパターンとなりました。
ただし、1148号はずっと中間に編成されています。
先頭に立てなかった事情があったのかもしれません。
[8]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/29(Tue) 11:01 No.172  
S43年といえば3本線でATSの使用が始まっており、1000系シリーズの昇圧改造内容も決まっていたので1140形運転室にはATS装置が取付られなかったと思います。

1140形で思出すのは4連で1140+1140+1100-1150という編成を何回が見ています。パンタが3個連続していて面白いなあと思ったものです。
[9]投稿者:名無し 投稿日:2015/09/29(Tue) 13:12 No.173  
>>8
なるほど。ATSの関係かもしれませんね。
>>7
1148号はATSどころかスピードメータがなかったようです。
[10]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/03(Sat) 12:40 No.174  
>>8
私は6〜7連時代になって「パンタ3連続」をメモを残しています。
S43.3.27 1140+1143+1024-1025+1022-1052-1023となり営業を発見、
しかし同4.7に編成替えされて消えています。
当時、1190 1193が休車で正雀に留置され、1140 1143や元々単独の1146 1148、
前年7月から独り身になった1142号などが単独でした。
[11]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/12(Mon) 08:38 No.175  
遅くなりましたが有り難うございます。

京都線のM台車であってもT(Tc)車で使うのであれば、神宝線や能勢電の車両にも装着できますね?
2331号車に関しては、後年に隣接する2884と共にミンデンドイツに振り返られています。2311の
交換は無理でした。昔々、個人的に正雀に入れてもらった時、2311の実車で解説して頂きました。

2331は21世紀になってから2307編成の7連化に伴って、番号はそのままでT化されましたが、この
際に台車を交換しているのですね。モーターだけ外しても走れると思いますが。

2307-2308-2358+2312-2332-2331-2356

阪急では運転台と何もない中間車が隣接するケースはP6、2021系、5136編成、2300系冷房車の
5両編成、1600系などあまり例はないと思います。国鉄では非貫通の101、103系ですらそういう
編成がありましたが。しかも梅田向きの運転台が3連発なんて凄いですね!!
[12]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/14(Wed) 08:34 No.176  
'70(S45)年が今年と同じ曜日だったと話題になりましたが、
その6年前'64(S39)年も今年と同じ曜日だったようです。
東京オリンピック開会式の10月10日は土曜日でしたが、
学校が休みになって家でテレビを見た記憶があります。

そのすぐ後、宝塚線に真新しい3150F 3152F 3052Fが
走り始めました。鮮烈な驚きでした。
[13]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/16(Fri) 08:08 No.177  
昭和39年も今年と同じでしたか。。。

自分は2300系が新車で入って来た頃に、既に正雀で勤務していた人と話をしたことが
ありますが、衝撃的な出来事だったということです。従来の古いデザインの車両の中に、
突如、近代的なデザインを持つ車両がやって来るのですから、そういう感情を持つのは
当然だと思います。国鉄や他社でも同じような衝撃はあっただろうと察します。
[14]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/16(Fri) 09:42 No.178  
3000,3100系が投入された時の驚きに、
中間車が3500,3600番台だったことがあります。
それ以前はM-Tユニットで50番コンビでしたが、
一挙に500番の違いが衝撃的でした。
[15]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/17(Sat) 07:13 No.179  
昭和39年組は元々2500、2600、2800系として計画されていたけれど、
前の二者は3000、3100系となったようですね。運転台の有無に関わらず
電動車と付随車を00番台と50番台で区別する神宝線2000系列の仕組みは
必ずしも良くなかったようです。

阪急の中間電動車は610系の630形が発祥だったように思いますが、ある程度の数を
作ると先頭車が30に達してしまいますので、プラス500にしたのでしょう。
30番台を中間電動車とする考えは能勢電の1500、1000、1700系でも生かされていますね。
[16]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/17(Sat) 07:40 No.180  
3000/3100系以降でも、阪急の番号の仕組みは共通した法則性がありながらも、
各形式独自の考えに基づいた付番もあるように思います。例えば地下鉄60系との
重複を避けた5100系は、梅田向きのMcが偶数、反対向きのMcが奇数と付番され
ており独特な仕組みだと思います。700系でもMcは偶数・奇数となっていました。
[17]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/17(Sat) 09:18 No.181  
2000,2100系の付番はある意味順序通りで、種別ごとに判別できないものの
ファンとしてはおもしろかったものです。

2000系は当初4連固定で2060Fあたりまで製造され、2062F,2065F,2068Fは4+2の6連用に製造されたのでしょう。

2021系は2071F,2074Fが6連固定、2077F,2079Fが4連、
2081F,2084F,2087Fが4+2の6連、2090,2091の各2連は2077,2079増結用に、となかなか興味がつきない付番ではありますね。
[18]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/17(Sat) 11:17 No.182  
3000系以降の付番方式は2000系での混乱を反省しての事で
2000系時点では輸送量の急激な増加は予測出来なかったのでしょう。

6000系以降ではMc6000(百位偶数)M'6500(百位奇数)M6600(百位偶数)Mc’6100(百位奇数)であったのが
8000系ではMc8000(百位偶数)M'8600(百位偶数)M8500(百位奇数)Mc’8100(百位奇数)の付番に変わっています。
[19]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/17(Sat) 15:57 No.183  
6000系以降は本当にすっきりしました。
さらにMを両端に寄せてプッシュプルになってからは
単調な並びになりましたね。
反面、面白味はなくなってしまいました。

2100系については、当初2150,2151の2連×2本、
その後2152,2154は4連、2156F,2159F,2162Fhは4+2の6連
でした。
初めの2連2本は、2152,2154に連結して6連になっていました。

[20]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/17(Sat) 22:13 No.184  
8000系の付番は先頭車+500が中間車の付番基準ならMcと同じ機器構成の中間車Mは8500であるのが本筋であると山口侯がピク誌で書かれています。
6000の時にそういう議論は出なかったのかな。
[21]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/18(Sun) 08:12 No.185  
6000系よりも前に5300系で5800や5900のようなのが登場していますよね。
8000系は87XX番というのが少々違和感ありな。
5200系の5740番台はMの5710に30を足したという解釈なんだろうか?
[22]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/19(Mon) 10:54 No.186  
2000,2100,3000,3100系は当初たいへんすっきりとした姿だった気がします。
これは1010,1100系などにも言えるのですが、屋根にはクーラーもなく、
列車無線の受信アンテナや避雷器もまだなかったですから。

昇圧改造を終えた2000,2100系は神宝寄りの1個パンタとなり、

梅田側のパンタ撤去跡に避雷器が設置されてやや不恰好になりました。
[23]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/20(Tue) 20:34 No.187  
2000,2100で昇圧時神宝側パンタが残ったのは鍵外しの引き紐がそちら側にしかなかったためですね。

2100系は登場時宝塚寄り1パンだけ上げて運転していました。
[24]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/24(Sat) 06:52 No.188  
パンタの撤去跡が目立たないように車両後部のを撤去し
前部のを存置したという話も聞いたことがあったけど、
あれはネタだったのか

一時期5300系の貫通編成(01、23、24)がパンタ一丁で
走っていたが、この際は前部のを外していたし
[25]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/24(Sat) 09:03 No.189  
「引き紐」とは、市電のポールを上下させる紐のような
イメージなんでしょうか?

[26]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/24(Sat) 12:07 No.190  
ちょっと違います。パンタ下降時に上昇しないようにロックしている鍵(L形をした金具)を外すためです。
通常は鍵と繋がっているエアシリンダに空気を込めて外すのですが、エアが無い時に鍵につなげてある引き紐を手で引張りパンタを上昇させます。
2000系では先頭車は運転室内天井、中間車はホロ枠の上部に引手がありました。
紐といっても屋上部は金属ワイヤやロッドになっており絶縁のための碍子も途中にあります。
3300、5200系までの菱形パンタではその後の改造で電磁鍵外し装置となり引き紐は廃止されています。
電磁鍵外し装置は手で引っ張る代わりにバッテリを電源とする
電磁石の作用により鍵を外します。阪急では5100系の下枠交差パンタ(PT4806-BM)より採用されています。
パンタ横に明るいグレイの小さな箱がありますがそれです。
[27]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/24(Sat) 15:09 No.191  
早速ご説明ありがとうございます。

2000.2100系が運転台寄りのパンタを残して不恰好になったのは、
昇圧改造の数年後には冷房改造が控えていたこともあって、
暫定的な措置だったのかもしれませんね。
[28]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/24(Sat) 16:45 No.192  
連投スマンです。
上で「数年後」とカキましたが、メモを調べますと
およそ10年後に冷改となっています。
歳月はどんどん過ぎていったのですね。
[29]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/25(Sun) 11:14 No.193  
最近のパンタは架線との高さが変動しても上に押し上げるバネ?の力が強いようですね。
かつて600V時代(電圧とは関係ないかもしれませんが)、よくパンタが架線から離れて、
夜間室内灯が一瞬消えることも多かった記憶があります。
[30]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/25(Sun) 18:08 No.194  
600V時代は1000系以前の複電圧車以外の車両はMG(電動発電機)が無く、室内灯は架線から直接取っていた(100V電球の場合は6個直列に繋いでいた)ので、パンタの離線があると全部が消えましたね。
[31]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/26(Mon) 11:02 No.195  
MGがなかったのですね・・。
電灯が消える状況を記憶されているのは、
50歳代半ば以上の年代と推察します。
[32]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/26(Mon) 20:33 No.196  
加速時の主制御器ステップアップごとに照明が少し暗くなり段数が判りましたね。
810系後期や1200系にはMGが無くても直流点灯式の蛍光灯が使用されていました。
[33]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/27(Tue) 09:39 No.197  
昭和50年代の下新庄〜吹田のカーブでも時々電気が消えることが
あったように思うけど、思い違いかなぁ?
[34]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/28(Wed) 17:32 No.198  
冬場は座席の足元から熱い気流が流れてきましたね。
しかもブレーキ操作の時は熱過ぎ・・・でした。
[35]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/28(Wed) 20:14 No.199  
>>33
 さすがにその頃はMGなし車両は存在しません。SIV装備の車 両かもしれませんね。

>>34
 抵抗器余熱暖房ですね。1010,1100系に採用されていました が、昇圧で無くなりました。
 P6も一時装備してた時期がありました。
[36]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/31(Sat) 10:56 No.200  
車両の話ではありませんが、宝塚線の三国駅付近の急カーブも遠くなりましたね。
消えてもう何年になるのでしょうか。
確か速度制限30か35程度で通過列車も最徐行でした。
駅ホームも北寄りでは車両の出入り口が離れていました。
特に3扉化した中央の扉は子どもにはちょっと怖かった記憶があります。
[37]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/31(Sat) 15:37 No.201  
三国の急カーブはR100、制限30km/hでしたね。線路規格向上以前はもっと急だったそうです。
大阪市側堤防に建っていた上り線の信号機下筐体は「阪神急行電鉄」の鋳出しがある貴重なもので高架切換まで現役でした。
その後正雀レールウィフェスで売り出されてましたが売れたのかな?
[38]投稿者:名無し 投稿日:2015/10/31(Sat) 18:47 No.202  
あれでも緩和されたのですね。
まぁ能勢口も緩和されてあれでしたが。

1992年頃梅田行き普通の8000系が45キロでカーブに突入し
ヤバいと思ったけど大丈夫でした。通常は川の手前のカーブ辺りから
減速していましたが、何故かその日はスピードが出ていました。
[39]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/01(Sun) 02:32 No.203  
フランジでしたっけ?車輪の出っ張りがレールと擦れる音もなつかしいですね。
線路の内側に脱線防止用のレールがありました。
最近は営業路線でほとんど聞きませんんね。
[40]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/04(Wed) 11:08 No.204  
三国駅は駅の北側に改札口があった。
自分は梅田行き列車は最後尾に乗ることが多かったが、おばちゃんが大声で「待ってー!!」と
叫んで、切符無しで改札機も突破して車内に乗り込み、車掌に頼んで伝票のような紙で発券して
もらっているのを何度か見たことがある。
[41]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/05(Thu) 09:03 No.205  
上りホームの北端は一番危険だったはず。
編成の増強に伴ってホームを梅田側に延伸させて
急カーブを避ける措置もされていました。
[42]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/06(Fri) 08:16 No.206  
旧三国駅といえばスーパダイエーがありましたね。
確か関西エリアの第一号店だったのでは?
今はどうなっているのでしょうか。
[43]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/06(Fri) 23:32 No.207  
ありましたね。狭い店でした。ダイエーの1号店は千林店ですが、本格的なスーパーマーケットとしては三宮店が第1号ですね。
三国店は1960年開店(閉店済)、庄内店は1964年、曽根店は1972年開店です。曽根店は「曽根ショッパーズプラザ」という名でした。
[44]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/07(Sat) 08:31 No.208  
曽根のダイエーは72年開店なんだ
駅が地べたの時にはよく行ってたなあ

ローソンは豊中にあるどっかの店が1号店ですな

曽根のボーリングとかスポーツの絵はいつ頃からあるのかな?
[45]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/07(Sat) 09:33 No.209  
三国のダイエーは閉店してのですね。
とにかく狭かった印象ですが、駅改札口の直近だったような。

庄内のダイエーもごちゃごちゃしてた印象ですが、安い品物が0多く活気がありました。

>>40 走り込み乗車はよくありましたね。
15分ヘッド時代、三国駅では上り普通はほぼ均等でしたが、
蛍池〜服部の各駅では、4分・11分とアンバランスでした。
池田発の後を走る宝塚発は、庄内での急行待避を意識してか、
どんどん早くなり、所定より30秒〜1分ほど早発が常態化していました。
[46]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/07(Sat) 21:01 No.210  
>>44
完全にスレ違いですが、ローソン1号店は豊中警察署近くにある桜塚店ですね。
今はなくなりましたが、店内にローソン薬店がありました。
今のコンビニドラッグの先駆けですね。
平日の昼間だけ白衣を着た薬剤師と思しきおばちゃんがいました。

>>45
池田始発は普通だけでなく、急行や準急もあったかと思うのですが、記憶違いでしょうか?
運行標識板には急行や準急もあったと思うのですが、実際に運行されていたかどうか、記憶が怪しいのです。
[47]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/08(Sun) 09:49 No.211  
>>46
>45は平日日中の状況でした。
池田始発の急行は平日朝ラッシュ時に2本、
後に区間急行は増発されますが、雲花発が3本池田発1本
という時期もありましたね。
準急は平日の夕方、出庫を兼ねて5本、
池田行準急は平日の朝、入庫を兼ねて5本ほどありました。
[48]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/09(Mon) 22:21 No.212  
46です。

>>47さん
レスありがとうございます。
やはり記憶違いではなかったのですね。もう40年近くも前になると、記憶があやふやです。
池田駅の高架工事が始まって池田行きがなくなり、高架工事完成後に一時的に昼間の池田折り返しがありましたね。
結局、池田折り返し電車は雲雀丘折り返しになってしまいましたが、当時池田に住んでいた者としては、表示幕や標識板の池田の文字が何だか嬉しく感じたものです。
[49]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/10(Tue) 07:17 No.213  
池田は阪急発祥の地、車庫もなつかしいですが、
バッティングセンター(ゴルフ練習場?)になった際にはなんと狭い所だったのか、
と思いました。
[50]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/12(Thu) 13:48 No.214  
旧三国駅時代は準急も停車していました。
周辺に事業所が多かったのか、通勤時などは
かなりの乗降客があったようです。
大阪市側か橋を渡って豊中市側に通勤していたのかは不詳です。
[51]投稿者:名無し 投稿日:2015/11/17(Tue) 18:01 No.216  
準急が十三の隣の三国に停まるのはなんか違和感がありました。
京都線の南方は地下鉄との接続があるので82年からの準急も今の
準急も停車するのは分かるんですが(エキスポ準急は通過)。

宝塚線の準急って今から30年くらい前は雲雀丘花屋敷から出発して
梅田で折り返し、箕面行きになったんでしょうか?朝だけでなく夕
刻にも走り、上下線ともに走っていたのでなんか格好よかったです。
後年まで1000系列も標識灯を1つ灯して走っていましたし。
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